百不当の一老
という言葉があります。
「弓で的を射る時に初めはいっこうに当たらない(百不当)が
その当たらない矢を何本も何本も放って修練を積むと、
その修練の力によってやがて的に矢が当たるようになる。
この時の一当はそれまでの百不当の力であり、
百不当の一老(蓄積)である。」
という意味です。
この言葉は何年間も努力しても成果が上がらなかったが、
その次の年から成果が出たということにつながりますが、
さらに、突き詰めると
“正しい修練を積んだからこそ”できることなのだ
ということが含まれているのだと思います。
ですから、矢が的に当たるという小手先だけを修練するのではなく、
弓をもった自分自身が修練することが大事で、
そうして初めて一老(蓄積)があるのだ
と自分は解釈しています。
この言葉を様々な場面で思い出します。
