私たちが生まれたときから、「どこかが動く」ということは何一つ動くための仕組みを知らずに実際に動いていきます。
ある筋肉、○○筋があったとして、その筋肉の存在を知らなくても動かすことに問題はないのです。もともとあるものだからです。
重力や色々な世界の法則も偉大な人物たちのおかげで私たちが理解できる言葉になりましたが、それは発見され言葉になるずっと前から存在していたのです。
ですから「正しい重力の形」という言葉がどれほど滑稽かすぐに私たちはわかります。
(将来、もっと違った風に法則についての言葉ができれば別かもしれませんが・・・)
ところが、人の動きとなると「正しい○○」という言葉はたくさんあるのです。
グスタフ・マーラーという作曲家・指揮者はこんな言葉を残しています。
「伝統とは火を守ることであり、灰を崇拝することではない。」
私見ですが、文化的スピリットを継承するときに、マーラーの言う「火」とは「正しい形」ではなく、その裏にある哲学であり、思考であり、さらに突き詰めると、世界や人の体にもともと備わっている何かを「ある形」で表現することにいきつくのではないでしょうか?
そしてその「ある形」こそが、もともと存在する確固としたルールに則った、ある意味「正しい」と呼ばれるものなのではないでしょうか?
私が人について自分を通して探求したときに、重力のように確固としたルールに則ることはありますが、それ以外に「正しい」「間違った」というものは無いように感じます。
その確固としたルールが例えば、骨の形だったり、筋肉の付き方のことです。
そして、その確固としたルールすらも個人個人で差があるものです。
ストレッチには色々な形があります。でも、その形をいかに完璧に守るかが大切なのではなく、いかに体に害なく=体のルールに則って形を表現するかが大切です。
そうやって体のルールとストレッチの形を融合させて続けると、いつの間にか体がその形をより良い形で表現できるようになるのです。
ラジオ体操にもある決まった形があります。でも、その形をいかに守るかが大切なのではなく、いかに体に害なく=体のルールに則って、各人が形を表現するかが大切になります。
そうやって体のルールと体操の形を融合させて続けると、いつの間にか体がその形をより良い形で表現できるようになるのです。
飛行機は空を飛びます。私は航空力学などは全くわかりませんが、それでも、例えば重力などのルールを無かったものにして飛行機は空を飛ぶのではなく、おそらくそのルールをうまく利用して空を飛んでいるわけです。
体のルールは知らなくても存在しています。ただし、知ることでうまく利用できることもあるということです。
そうして、知ったうえであらためて何かをするときに体のルールはあなたの邪魔をするのではなく、より表現したい自分を手伝ってくれるのです。
自分を害しない=ルールに則って、自分が存在するとしたら、それはどのように在るものなのでしょうか?
どんな自分が存在するのでしょうか?
そして、未だ明かされていないルールも含めて体のルールのすべてが自分の体にもともと備わっているなら、私たちは何を発掘し、何を学び、何を表現していくのでしょうか?
探求は続きます・・・
良き日々を
清家雅裕
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